牛窓と御茶屋跡

history

御茶屋跡から眺める瀬戸内の風景は、今も昔も変わっていないように思う。変わらない風景の中に、かつて半島から届けられたいくつもの時間を想いたい。建物としての歴史はまだ150年ほどだが、380年前に届いた文化とその後の町民たち一人一人の海辺の人生に思いを馳せて、この先に残していけることを考えたい。

牛窓沖見渡絵図(岡山大学附属図書館所蔵)

牛窓と朝鮮半島とのつながりは古く、寒風(さぶかぜ)の須恵器が伝来した飛鳥時代をはじめ、瀬戸内海の要衝として栄えた中世においても、経済と文化の両面で深い関係を保っていた。その中でも、特筆されるのが江戸時代の「朝鮮通信使」の牛窓寄港で、500名にも及ぶ大使節団が八回にわたって牛窓に立ち寄り、文化交流を図ってきた。当時の交流の名残や文化的遺産が、今だに生き続け、今日の牛窓での地域文化を支えている。

初めて「朝鮮通信使」が牛窓に寄港したのが1636年11月6日。今から380年以上前である。

「朝鮮通信使」の接待は当初、本蓮寺で行われたが、1682年(天和2年)より御茶屋がその役割をになってきた。御茶屋は1630年(寛永7年)に建てられ、光政時代には幕府の諸役人や参勤の大名衆などを応接する場として使用された。1669年(寛文9年)に普請奉行として大改修が行われている。1711年(正徳元年)の御茶屋絵図が残っていたので紹介したい。

海に面した32畳の「三使饗応ノ間」の他、「上々官饗応ノ間」「上判事・学士・医官饗応ノ間」が示されている。天和度に大改装された御茶屋の規模もこの絵図と同様であったと思われる。「休息ノ間」はもとより、「湯殿」「雪隠」が使節ごとに用意されているのも興味深い。図中で特に眼を引くのは「上段 国書置所」と記された7畳の間。来朝時にはここに朝鮮国王から徳川将軍へ宛てられら国書が置かれたと思われるが、この図は帰帆時の饗応の様子を示すと考えられるから、この国書は朝鮮国王宛の将軍国書である。通信使の主人公がまさに国書であることを示す鮮やかさである。

1748年(延享5年)の御茶屋絵図。1711年と比較すると建坪は縮小しているものの、海に面した庭を広くとった余裕のある構成となっている。これにより、牛窓のゆったりとした景観が確保され、今の御茶屋跡の構成とも重なる。その後、1764年1月13日が「朝鮮通信使」の最後の牛窓寄港になる。

1711年(牛窓町史より)

1748年(牛窓町史より)

明治に入り、岡山藩を廃止して、岡山県を置くことに及んで、牛窓に設置された藩政時代のもろもろの施設は、むなしくも消滅していった。なかでも豪壮華麗を極めた御茶屋は、1871年(明治4年)7月に廃止され、村有として保護されるようになったが、これが維持に種々の難点を生じ、1885年(明治18年)香川真一氏(牛窓町名誉町長)に所有権が譲渡された。しかし、建物の腐触損傷が激しく、香川氏は遂に建物を除去して、その跡に邸宅を新築して1886年(明治19年)に入居した。それ故、旧観は既に失われて、わずかに外曲の石垣がのみが、昔日の面影をとどめるに過ぎない。1959年(昭和34年)に所有権は錦海塩業株式会社に移るが、その後町へ返還される。返還後は、長い間空き家となってしまい、一度は町の議会で取り壊しの決議もされたが、そのことを悲しく思った町民からの相談により、921GALLERYが改修を行い、2015年に名前を「御茶屋跡」とし現在に至る。

参考文献
牛窓町史(通史編)、牛窓町史(民族編)、牛窓風土物語、牛窓風土物語 続、広報せとうち